皆様、はじめまして。 「EESa!虹の架け橋クラブ」イベントチームの是安です。
普段はファイナンシャルプランナーとして、 これまで1000人以上の方々のライフプランニングやマネープランニングをはじめ、 長い将来設計の中での、想いを叶える財産の創り方、遺し方のサポートや生前対策・相続対策の相談業務を行なっております。
特になかなか表に出てきづらく、悩みを抱えがちな状況や環境の方々 (障がい者・LGBT、離婚再婚事実婚経験者、シングルペアレント、引きこもりなどの当事者やそのご家族)など、いわゆる一般的な方より少し深い事情がある方、見えない壁などがある方々のご相談に力を入れています。
さて 「マイノリティ」という言葉を調べると、「少数派・少数者」と表現されています。
また別のネット情報には 「社会的な偏見や差別の対象、社会的弱者として位置づけられやすい」 などとも書いてあったりします。
昔の自分であれば、何も気を留めることなく読み流していたと思いますが、 皆さんはいかがでしょうか?
私には3人の子どもがいます。 そのうち長男が先天性の障がい(高度難聴)を持って生まれて来ました。 いまでも誕生後まもなく障がいを告知されたときの表現できない複雑な気持ちを覚えています。
現在小学5年生ですが、これまで幾度となく日常生活や教育・療育の場面などで悩んだり、憂いたりしてきました。
「将来この子は普通に進学し、普通に社会人になれるのだろうか? そして普通に結婚をして普通に子どもを授かり、普通に幸せな人生を送れるのだろうか??、、」
、、んっ?? 『普通』ってなんだ?? 耳が聞こえない分、視覚からの情報収集能力、そして察知能力やその感覚が鋭い息子、、
人ニ倍、目も使ってヒトの話を真剣に聞き、 (彼に嘘をついても目で見破られます) 人ニ倍、状況判断能力が高く (相手の意図を直ぐに感じ取り行動できる) そして 人三倍、優しく素直で他人思い。。 (人の悪口は絶対に言わないのです)
これは彼にしか持っていない能力であり、彼の「個性」なんだ。
小学高学年になり、同級生より語彙も少なく学習的に遅れているけど着実に成長してきている息子を見て、 最近ふと私自身考え方が変わったように感じ始めています。 (半分息子自慢になってしまいましたが(笑))
では、これまで使っていた 『普通』って何なの? 自分が基準の価値観の押し付けなのか? 障がい者であるという勝手な劣等感からくる憂慮なのか? はたまた 異質で在りたくないという無意識の心理の表れなのか? 明確な答えはいまも分かりません。 何不自由なくこれまで生きてきた私に染み込んだサムシングが理由なのでしょう。 SDGsという言葉をよく耳にする機会も増え、「多様化を受け入れる社会」という世の中の風潮に変わりつつあります。 ただ、時代の流れとしてはとても素晴らしいことだとは思いつつも、
「受け入れる」とか「認める」などという表現自体がそもそも異質を許容するという区別的表現(差別までいかないが)になっているのではないのかなぁと勝手に感じたりします。
もっと根本のところで、
マジョリティ(多数派)が「普通」であり、それが「当たり前」とされる価値観ではなく、
多様であることが「当たり前」であり、それが「普通」である。
という本質的な意味で、多様性が普遍である世の中になれば、誰もが自分らしく前向きに生きられるのではないかなぁ、と。
社会的サポートや法律的な整備ももちろん大事であるとともに、
いまこの世の中を生きる私たちが、 ジェンダー、性的指向、障がいの有無、結婚する、しない、生き方働き方の選択...など、さまざまなケースや場面で多様性があることを
ひとりひとりが当たり前に理解し合い、お互い尊重し合い、時にはサポートし合う、ということからまずは始まるのだと思います。
この日本セクシュアルマイノリティ協会や虹の架け橋クラブでの活動を通し、 たくさんの方との接点を持つことで自分自身の考え方をあらためて見つめ直す場、そして再確認出来る場になっています。
究極のゴールは、この日本セクシュアルマイノリティ協会や虹の架け橋クラブのようなサポート団体が不要になること、 つまりマイノリティもマジョリティも関係なく誰もが自分らしく生きている世の中になっていることなのではないかと思います。
そんな未来が来るまで活動をしていきたいですね! 当事者でもそうでない方も是非一緒に未来を考えて載のブログの内容は個人の想いを綴ったものです。様々なご意見やご感想があるかと思います。意見交換や話し合うことも大切だと思いますので、個別でも構いませんのでその際はお気軽にご連絡ください。】
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